戦国大名と金の関係

2024年1月31日 2024年1月31日
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戦国大名と金の関係

戦国時代には多くの金が採掘され、戦国大名はこの金をいかに活用するかに力を入れていました。金は権力の象徴とも言われているので、権力を持った大名ほど金を保有し活用しました。戦国でも金は重要とされ、大名とどのような関係にあったのでしょうか。

戦国一金に心を奪われた武将

戦国一金に心を奪われた武将

黄金大好き豊臣秀吉

戦国時代の何よりも派手を好み黄金好きだった武将と言えば、「金の千成瓢箪(せんなりひょうたん)」「黄金の茶室」「黄金のばら撒き」などで知られる、豊臣秀吉以外にはいないでしょう。織田信長亡き後、天下をとったのがこの「木下藤吉郎」改め、「豊臣秀吉」です。

戦国時代では宣教師や商人によって、ヨーロッパから金を精製する精錬法を教わり掘り出された金は、戦国大名達の領土を守る軍資金となっていました。まさに、日本のゴールドラッシュ。派手好きな豊臣秀吉は、この黄金の輝きに心を奪われなんと持ち運びが可能な組み立て式「黄金の茶室」を作成しました。

全てが黄金の茶室

この黄金の茶室は広さ3畳で、壁や障子などに1万6500枚の金箔が施されています。塗装ではなく本当の金を使用しているので、眩しいほどの黄金色に染まっています。実は、この黄金の茶室を作成したのが、日本の文化「侘び・寂び」を広めた「千利休」だったのです。

侘び・寂びを目標にしていた千利休がなぜこの黄金の派手な茶室を作ったかというと、深夜真っ暗な部屋に蝋燭を一本立てて茶道を楽しむのが目的っだったそうです。しかし、この茶室を作った数年後には秀吉と利休の関係は悪くなりそれっきりでした。

この組み立て式黄金の茶室は天皇に披露するのが目的でした。しかし、いつからか有力者を呼んでは茶会を催し、皆を驚かせて自慢していたということから侘び・寂びを大事にする千利休からしたら、あまり良い気持ちではなかったのかもしれませんね。

この黄金の茶室ですが現在、佐賀県の県立名護屋城博物館に復元されました。なんと、制作費は約3600万円。現在では金の値段が跳ね上がっていますので、現在の価値にしたらお値段はもっと高いかと思われます。

豊臣秀吉に影響を与えた織田信長

「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」そんな衝撃的な俳句を読んだ戦国武将といったらまず名が上がる織田信長。その家臣でもあった豊臣秀吉は、織田信長から多くの事を影響を受けたとされています。織田信長が安土城で初めて使用したのが、金の瓦です。

瓦に漆を塗り、金箔で瓦を作成しました。この金瓦は、安土城だけではなく岐阜城のふもとに築いた公居館にも使用していたとされ、信長が金を好んでいた事が分かります。その為、名古屋を中心とする東海地方では、今でも金を重宝する傾向にあります。

現代では、黄金好きの織田信長公にちなんで黄金の信長像が岐阜で見ることができます。そんな信長の側近でもあった豊臣秀吉も黄金の魅力を実感することになり戦国一黄金好きの武将になったのでした。

世界最大の金貨「天正大判」

世界最大の金貨「天正大判」

当時の日本は、世界最大級の金産出国であったことで、秀吉の居城である大坂城は、金銀で溢れていたといわれていました。秀吉はその有り余った金で、当時彫金家として有名であった「後藤四郎兵衛家」に金貨を作らせます。これが、現存する金貨で世界最大の大きさを誇る「天正大判(てんしょう おおばん)」です。

秀吉は自らの勢力を誇示する為、自身の建てた大豪邸で有力者を呼び、この天正大判4700枚をはじめ、金、銀をばら撒きます。とても今の時代では考えられませんね。この天正大判は縦17.3cm・重さ約165g。

現在の価値にすると、単純に金の重さだけの価値になると140万弱になりますが実はこの小判自体は現存数が世界で6点のみともいわれる希少品です。

実際スイスで行われたオークションでは1億2,000万円もの値がついたそうです。そんな、天正大判を配っていた豊臣秀吉は段々と財政が悪くなり、豊臣家の財力も失われていったのです。

黄金と徳川家康

黄金と徳川家康

日本の三大埋蔵金といえば、豊臣・徳川が有名です。豊臣は金の茶室や金のばらまきなどで黄金好きの噂が多いですが徳川家康は黄金好きだったのでしょうか?その答えは、家康の若い頃に使っていた鎧が答えになるでしょう。

家康が着用していた鎧は「金陀美具足(きんだみぐそく)」というもので、全身黄金で包まれた鎧だったのです。しかし、黄金は皆さんご存知の通り質量がとても重いのでそんな金でまとった黄金の鎧なんて戦で動けないのではないか?と考えるかと思います。

この金陀美具足は、表面全体が”金溜塗り”と呼ばれる金箔押しでできているので、金の輝きはそのままに動きやすい鎧になっています。現在では、この金箔で包まれた鎧は静岡市駿河区にある「久能山東照宮博物館」に国の重要文化財として残っています。

さらに、NHK大河ドラマ「どうする家康」でこの金陀美具足が映し出され、その黄金の輝きに多くの方が驚いたと思います。ここまで聞くと、徳川家康も黄金好きだったのではないかと思いますが、徳川家康自身が依頼して作成させたわけではなく今川義元公から贈られたとされています。(諸説あり)

この当時、位が高い人から下賜(お下がり)されることは良くあることで、金陀美具足もその一つだったと考えられます。その為、徳川にとって黄金はあくまで権力を示すものであり、なりふり構わず黄金に手を出していた訳ではないことが考えられますね。

徳川家康の天下統一後の大判小判

豊臣秀吉にかわって天下を取った徳川家康は貨幣制度の全国統一に乗り出しました。これが有名な「慶長金銀」(けいちょうきんぎん)になります。大判は豊臣の時代から作られていましたが小判を初めて貨幣として作成したのは、徳川家康からの時代からでした。

そして大判は今までの、大判は恩賞、献上、軍資金用のような形で使用されてきましたが大判小判を貨幣として扱うのは徳川幕府が初めてです。まず徳川が初期に作成した大判は二種類あり、慶長笹書大判(けいちょうささがきおおばん)明暦大判(めいれきおおばん)の二つです。

貨幣としての大判

慶長笹書大判には、流れるような美しい墨書がなされており、それが笹の葉のように見えるため、慶長笹書大判金と呼ばれています。このデザインを受け持ったのが、豊臣秀吉が作成した天正大判の墨書を行った後藤家です。徳川はこの豊臣の天正大判金を手本に造りました。重さは164.9グラム。豊臣秀吉が作成した天正大判には及びませんがとても重い大判です。

次に作成されたのが、明暦大判です。この大判は江戸の大火で焼損した金銀を用いて製造した為か、慶長笹書大判に比べると、他の慶長大判よりも品位が低い傾向にあります。

この二種類の大判は、徳川が貨幣の統一の為に作成しましたが、多くの大判は、恩賞用になってしまったので市場に出回るのはごく少量でした。

市場に出回るようになった小判

市場に出回るようになった小判

大判は市場に出回るのはごく少量でしたが、徳川が初めて作成した小判は市場に段々と出回るようになります。「慶長小判(けいちょうこばん)」は慶長笹書大判と同時期に作られた貨幣で「1両」の価値を持つ金貨になります。重さは、約17.9グラム。

慶長笹書大判と慶長小判大きな違いというと、大判には墨で書かれた墨書がありますが、小判には書かれていません。その代わりに、験極印という刻印が押されています。

この刻印は、様々な検査を行って製造されたものだと言う証になりますので、現在の金製品と同じく、厳しい検査を通過したものしか市場に流れないようになっています。

この時代の小判1枚は、今のお金の感覚で4万円くらいになり、江戸時代ではかけそばがこの1両で250杯分程食べられたそうです。

質素になっていく小判

徳川家は自身の権力を象徴するために大判小判を作成していきますが、徳川家康の死後、その小判の質は段々と落ちていきます。慶長小判は純度の高い金で作られていますが、94年後に作成された元禄小判(げんろくこばん)は、約17.81gとほぼ同じ重さにも関わらず、金の含有量が3割少ない、白っぽい小判になりました。

この質素になっていく小判の裏には江戸の経済状況が関係していました。豊臣秀吉や徳川家康の時代には、日本の金鉱山が豊富でしたが金の大量採掘によって限りある資源の金は段々と採掘量が少なくなっていきます。さらに、貿易により海外への金銀の流出や人口増加が原因になり、国内の小判の通貨量は不足して行きました。

幕府はさらに小判の流通量を増やすために、金の含有量が高い慶長小判を回収し銀と混ぜ合わせ元禄小判に鋳造するようになりましたが、元禄小判よりも質の⾼い慶⻑小判を⼿放したがらない市⺠も多かったそうです。その為、幕府は交換の際、元禄小判を多く渡すことにしましたがこれもまたインフレを加速させてしまった悪手でした。

慶⻑小判は、幕府が回収し交換を行っていた為現存数はかなり少ないです。市場での買取価格は数百万円を超えることもあり、希少な小判の一つになります。

大判小判の終焉

大判小判の終焉

小判は黄金が含まれていたものから、時代が経つにつれ金の含有量が減っていき質素な物へと変化していきました。さらに、使用されるにつれ経年劣化が起こり墨書が薄れていくなど難点もありました。

この墨書が消えてしまうとせっかくの大判小判も使用することができなくなるので、墨書を行った後藤家に手数料を払い書き直してもらわないといけません。こういった手間が大判小判の廃止につながったのかもしれません。

明治維新後には、新貨条例が制定され古金銀通用は停止され、新貨幣の圓(円)、銭、厘の新貨条例が制定されました。

まとめ

日本のゴールドラッシュだった戦国時代では、金は権力の象徴でもあった為、多くの戦国武将が金を活用していきました。黄金は権力を誇示するものだけではなく、軍事力にもなりますので金が採掘されるであろう土地は、戦の理由にもなる程でした。

現代でも、戦国時代に流通していた黄金が市場に出ることは珍しくもないですが、その希少価値は高く、コレクターに人気の高い大判や小判は高額でお取り引きされます。ご自宅から出てくることもある大判や小判の査定はぜひ、買取おりづるにお任せください。

金や貴金属の豊富な買取実績がある買取おりづるでは、大判小判の買取実績が豊富です。大判小判によっては、専門家による鑑定書が付いている場合がありますが、所持していない場合もぜひ一度ご相談ください。

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