イタリアの高級ブランドとして現代でも多くの人に愛されているブランドです。バッグだけではなく、サイフやカードケースなどの皮革商品をはじめ、服、宝飾品、時計、香水などを幅広く手がけています。長い歴史のあるグッチですが、GUCCIを詳しく知らないという方も多いかと思います。今回はGUCCIの歴史についてお話をしていきます。
目次
グッチの歴史
イタリアから始まったGUCCI
GUCCIの創設者「グッチオ・グッチ」は、1881年イタリアの中部都市フィレンツェで生まれました。青年になったグッチオ・グッチは、ロンドンに移ると高級ホテルのポー
ター(ドアマンやお客さんの案内)として働きました。
お客さんの一番初めに顔を合わせる仕事で、グッチオ・グッチはイギリス貴族の洗練された感性や、お客様の持つ高級な旅行バッグに触れる機会がありました。この経験が後のGUCCIに強い影響を与える事になり、彼のデザインのインスピレーションにもなりました。
帰国後に自身のブランドを立ち上げることを決意し、1901年にフィレンツェに帰国しましたが、1914年から1918年にかけてヨーロッパを中心に起こった”第一次世界大戦”の影響により徴兵する事になってしまったのです。
大規模の戦争が終わりを迎えると、1921年にやっと「GUCCI(グッチ)」起業する事ができました。グッチオ・グッチは、ロンドンで見た数々のデザインに影響を受け、主に高級革を使った旅行かばんや馬具を製作しました。
なぜ、グッチオ・グッチが馬具を中心に商品を展開したかというと、イギリス貴族の洗練された感性に強い影響を受けたからでした。イギリス貴族の趣味である乗馬をモチーフにデザインを考えると、品質の高さと独特なデザインで創業から数年で国内で名の知れるブランドになったのです。
初めての困難に直面するGUCCI
ここまで順風満帆に進めてきた「GUCCI」ですが、初めての困難に直面する事になりました。GUCCIの製品の多くは高級革を使用した物が多かったのですが、この革製品が使用できなくなってしまったのです。
その理由は、1939年から1945年に起こった”第二次世界大戦”。この時、グッチオ・グッチは58歳。イタリアも戦争に参加しましたが、残念なことに敗戦。敗戦国となってしまったイタリアは、物資が潤うこともなく、終戦を迎えました。
戦争の影響で、革や金具その他様々なものが禁輸措置(特定の国との取引を禁じる事)になってしまった為、グッチは革も金具も使えなくなってしまいました。その事によってバッグを作る事ができなくなった「GUCCI」は、最大のピンチに陥ってしまいます。
GUCCIのデザイナーとしての開花
革の代用品で鞄をデザイン
革やバッグの素材が使用できなくなった「GUCCI」ですが、決してあきらめず、代用品でバッグを作成できないか考えました。そこで、「グッチオ・グッチ」が目を付けたのは、”キャンバス地”です。
そもそも、”キャンバス地”とは、日本語で「帆布」と呼ぶように、元々は船の帆として作られました。その他にも芸術の絵画を描くために使われたり幅広く使用されていた物でした。
”キャンバス地”は丈夫な布ですので、ちょっとやそっとの力では破けるものではないのですが、耐水性や耐久性に問題があったため、日常的に使われるバッグに使用されることはごく稀だったのです。
グッチオ・グッチは、強度や耐水性などを向上させる為にキャンバス地の上に薄いコーティングを施して使うことにしました。表面に薄い層を付けることで水を弾き、傷にも強いバッグに仕上げました。
キャンバス地のバッグの上に、GUCCIのブランドカラーでもある赤と緑のストライプを施し、バッグを発表しました。この赤と緑のストライプはイタリアの国旗の色に因んだ物であり、国内で人気のバッグになったのです。
日本とGUCCIの特別な関係
キャンバス生地を使ったバッグを発表した同時期に、GUCCIはもう一つのバッグを発表します。それが現代でも人気の高い「バンブーバッグ」です。
通常はバッグの持ち手に金属や皮革を使っていましたが、戦争の影響で使えなくなった為、グッチの職人たちは安定して供給できる代替え品を模索しました。そこで、代替え品に注目したのは、日本の「竹」です。
日本の竹細工は縄文時代の遺跡から竹の道具が出土するほど長い歴史を持っています。丈夫で耐久性に優れていることから、貿易でも人気の高い品だったのです。
GUCCIは日本の竹細工から着想を得た後、竹を高熱で温め力一杯U字型に曲げ、バッグのハンドルとして使用しました。
かつてないデザインに、多くの人は驚きましたがアイコニックなデザインが人気を呼び、ヨーロッパの富裕層を中心に人気の火がつきました。戦争の厳しい現状にも負けずに、進んでいくGUCCIに多くの人が感動しました。
このバンブーバッグは現代でもグッチを代表するデザインの一つとして引き継がれています。
GUCCIの覇権争い、一触即発の危機
次の経営は誰の手に?
様々な革命的なデザインで多くの人を魅了してきた創業者「グッチオ・グッチ」です。しかし、年齢の問題もあった為、自身の子供たちに経営を任せようかと考えました。グッチオ・グッチの子供は6人、そのうち4人の息子がグッチの経営に関わることになったのです。
しかし、問題が起こったのは経営を任せるようになってから数年後の1953年。グッチオ・グッチの三男のアルド・グッチが、グッチオの反対を押し切る形でニューヨークに支店を出したのです。
幸いにも、ニューヨークでもGUCCIの人気は高くなる一方だったので成功にはなりましたが、同年1953年、夏にグッチオ・グッチは72年の生涯を閉じ家族に見守られ亡くなりました。その後、三男のアルド・グッチが2代目社長に就任しました。
GUCCIの覇権争い
GUCCIの社長が変わってから、力を合わせてGUCCIを広めていく事になるかと思われましたが、残念なことにそれぞれが自分の利益を追求し突き進めていった結果、株式の取得や経営権の争奪などで対立することになってしまったのです。
それに加勢するかのように、2代目社長「アルド・グッチ」の息子や、他の兄弟の息子も経営に関わることになり、GUCCIの経営は混乱を極めました。
多くに人が経営に関わることになった最大の危機が起こります。グッチオの五男であるロドルフォの一人息子であるマウリツィオ・グッチが経営に関わるようになると、一人の女性が彼に近づきました。
実はこの女性、マウリツィオがグッチの株式を相続することを考え、彼に近づいたと言われています。
アルドの反対を押し切って、「パトリツィア・レッジアーニ」と結婚したマウリツィオですが、彼女に深い愛情を抱いていた為か、彼女に所有していた全株式の50%以上をパトリツィアに売買してしまったのです。
そして、パトリツィアは義理の父親であるアルドを経営の座から追い落とし、自分が代表権を持つようにしました。
しかし、この2人には経営の才能は一切なかったので、グッチのブランドイメージを低下させました。様々な会社との契約を次々に乱発し、ライターやタオル、さらにはスリッパなど、その時代のハイブランドでは考えられないような商品を次々に発表しました。
数々の革命的なデザインを発表してきた、GUCCIが初めての低迷期に突入してしまったのです。
GUCCI一族の撤退
GUCCIの経営を受け持っていたマウリツィオですが、夫人(パトリツィア)の浪費癖によって、多額の借金を抱えるようになりました。1993年、マウリツィオはグッチの株式を全て売却し、グッチ一族は経営から退くことになったのです。
低迷期に入っていたGUCCIでしたが、「トム・フォード」というデザイナーの力で立ち直す事ができたのです。今までのGUCCIは、ラグジュアリーな路線のデザインを打ち出してきましたが、トム・フォードはグッチに、ロックなテイストを加えました。
歴史のあるデザインと伝統を残しつつ再構築されたデザインは、GUCCIの復活のデザインだったのです。
トム・フォードのデザインした中で最も有名なのはレザージャケットです。歌姫である”マドンナ”や女優の”ケイト・ウィンスレット”など著名人が愛用したことで、さらに人気に火が付きました。
現代でも、GUCCIのロックテイストは人気が高く多くの著名人が愛用しているほどです。ラグジュアリーなラインはもちろん、ロックテイストなGUCCIが生まれたのは、「トム・フォード」がいたからこそと言われております。
同じブランドでも、ラインによってガラリと印象を変えることのできる唯一無二のブランド、それが「GUCCI」です。
まとめ
GUCCIのデザインは、ラインによって全く別のイメージを持つことのできる特別なブランドです。長い歴史と人々の手によって作られてきたGUCCIは、現代でも多くの人に愛されています。
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